私たちは何をもって音楽とおもうのか──〈スネアドラム 澤田守秀 & チェロ 北嶋愛季〉レビュー

公演概要

スネアドラム 澤田守秀 & チェロ 北嶋愛季 Snare Drum and Violoncello Youtube LIVE

【日時】

2022年1月9日(日) 18時~

【形態】

YouTubeでのライブ配信(視聴無料・アーカイブあり)

【出演】

チェロ: 北嶋愛季

スネアドラム(打楽器): 澤田守秀

【配信・会場】

空音舎

【Program プログラム】

4:54 Tatsuki Hojo 北條立紀:Spring tree 春の木

8:16 Improvisation 即興 ( Snare Drum Solo スネアドラムソロ)

27:51 S. Sciarrino : Ai limiti della notte

32:30 Improvisation 即興 (Snare Drum and Vc スネアドラム&チェロ)

48:03 J.S.Bach: Suite for Violoncello No.3 Prelude 無伴奏チェロ組曲第3番よりプレリュード

1:01:00 Improvisation 即興 (Snare Drum and Vc スネアドラム&チェロ)

配信アーカイブ(新規タブが開きます)

チェロによる独奏作品の演奏と、3つの即興演奏パートから成るライブ。合間に2人のトークを挟みつつ、終始、なごやかな雰囲気で行われていました。トークによると、即興パートに関してはリハーサルや打ち合わせなどは特になく、「こんな感じ」という流れの確認程度だったそう。

initium ; auditorium」主催公演での出演をきっかけに、今回の配信ライブに至ったという2人。

今回の演奏評はおもに即興パートに触れてゆきます。

即興パート① 打楽器ソロ──「ドレミの音楽」から「ドレミでない音楽」へ

テレビや街中のBGM、SNS、広告。学校での音楽の授業。私たちは普段、「ドレミファソラシド……」という五線譜に表せる音階、リズムやハーモニーを持つ音楽を耳にしています。

では、「ドレミ」で表せない音は、音楽ではないのでしょうか? リズムやメロディがなかったら、音楽ではないのでしょうか?

私たちは普段、何を持って「音楽」とし、何を持って「音」としているのでしょうか?

今回、澤田氏が行った、スネアドラムのみによる7分間のソロ・即興演奏は、「ドレミでない音楽」を体験させてくれました。

北嶋氏のチェロ独奏「北條立紀: 春の木」は、はっきりと「ドレミの音楽」を提示します。対して、その直後の澤田氏の即興は、11:35あたりまでマレット(打楽器を叩く棒)すら変えず、ゆるやかな音色の変化のみで行われます。ときおりリズムを打っても、それらは断片的で、明確な拍子感は表に出てきません。

とくに配信ライブだと、これらの変化は視覚的にもわかりやすいでしょう。

マレットの持ち替え/持ち替えない、マレットの向き、ヘッドを叩く位置、フィルムの着脱など。演奏者の挙動がカメラでピックアップされるため、視聴者は耳以外でも「ドレミでない音楽」の聴取を要求されます。これはライブ配信ならではの楽しみかもしれません。

チェロの手元や、弦をクリップで挟んでいる様子などもはっきりわかります。

即興パート② デュオ──打楽器としての弦楽器

次に2つ目の即興、チェロとスネアドラムによるデュオを見てみましょう。

ここで興味深いのは、北嶋氏によるチェロは、ほとんど打楽器のように演奏されているということです。

例えばここで、チェロはあえてメロディックな演奏をするとか、ハーモニーを鳴らすとか、そういう選択肢もあったはずです。実際、演奏の途中(35:12付近)ではわずかに、そういった試みも行われています。

しかし基本的に、チェロは弦楽器でありながら、打楽器的な発音を繰り返します。これが、北嶋氏が自発的にそうしているのか、澤田氏がそうさせているのかは、演奏者本人に聞いてみないとわかりませんが……

弓の背で弦を縦横に擦る奏法。スネアドラムのヘッドを擦るような効果が聞こえます

こうすることで、我々の耳はより「ドレミではない音楽」──いま、鳴っている音そのものに傾いていきます。音色・発音・音の残響・奏者の動きに、どんどん、身体がフォーカスしてゆきます。

即興パート③ デュオ──“当たり前”の逆転

結果として、最後の即興の冒頭には、非常に強烈な異物感を覚えます

1:08:18~ 北嶋氏は画面外で鈴を鳴らし、歌唱しています

北嶋氏の声とティンシャ(チベットシンバル)の音による歌唱。もしこれが、今回のライブ一本目の即興なら、ドレミの音楽にチューニングされた耳でも、ごく自然に受け入れたかもしれません。

しかし、これまでのライブ中、何度も繰り返された「ドレミの音楽」「ドレミでない音楽」の対比によって、この歌は、奇妙な効果音のように聞こえてきます。まるで、あらかじめ用意されたスマホの着信音が鳴り響いている、そんな様子です。

もちろん音楽分析的に見れば、これはなんとか抜き音階であるとか、どこそこの民俗旋律的であると言えます。

しかし、ドレミの音楽とドレミでない音楽が、プログラム構成、そしてフリー・インプロヴィゼーションの中で対比された結果、私たちは普段から養っていた音楽の“当たり前”を逆転させられるのです

終わり──音と音楽が対比され、変化し、同時に存在するとき

弓の背が弦を擦る音。ドラムヘッドを撫でる音。それらが反響し、ぼんやりと混じっていく。口ずさめるようなメロディはなく、踊れるようなリズムはありません。

それらは、あなたにとって「音」だったでしょうか? それとも「音楽」でしたか?

私たちが普段、当たり前に「音」と思っていたものは、もしかしてずっと昔から、「音楽」として存在していたのではないでしょうか?

また、もう一点興味深いことは、今回の即興パートにおいて、「ドレミの音楽」と「ドレミでない音楽」は常に「対比」として存在していました。

リズム/ハーモニー/メロディのような要素が見いだせない非言語的な即興*と、打楽器のリズム、北嶋氏によるティンシャ、声、チェロが打ち出すうたによる即興。あるいは、即興パートと楽曲作品。それらによるコントラストはとても明快で、それによって私たちは音と音楽の境を行き来することができました。

では、もし、「ドレミの音楽」と「ドレミでない音楽」が同時に存在する瞬間が現れたら、それは、どんな空間になるのでしょうか?

あまりに文法が違うことば同士がぶつかったとき、それらが本当に同時に鳴る瞬間、あるいはその瞬間が成り立ったとき、私たちの耳は、体は、どんなふうに変化するのでしょうか。

*……非言語的な即興云々については、こちらの記事をご参照ください。

音の捉え方について考えさせてくれる、たのしい配信ライブでした。今回は即興パートについておもに取り上げましたが、北嶋氏のチェロによる楽曲演奏がなければ、「ドレミの音楽」と「ドレミでない音楽」のコントラストは、ここまで明確に成り立たなかったはずです。

ぜひ、配信アーカイブをじっくりご覧ください。

出演者情報

スネアドラム

澤田守秀(さわだ もりひで)

WEB https://www.snaredrumsolo.com/

 

チェロ

北嶋愛季(きたじま あき)

WEB https://www.akikitajima.com/

 

配信・会場

空音舎(そらおとしゃ)

WEB http://soraotosha.main.jp/index.html