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【連載】即興ワークショップ体験談④ – 体の自由について

執筆者: 松岡大輔

ひとりの女性のことを思い出します。彼女は、言葉をほとんど話さず、顔の表情が動くこともありません。即興の間、彼女はだいたいいつも両足で直立し、両腕の肘から先をくるくる回しながら、時々、つま先を床につけてくるっと回します。

前回の記事では、即興における自由に触れました。今回は、この女性の動きを振り返りながら、身体を動かす、あるいは身体が動くときの自由について考えていきます。

【連載】即興ワークショップ体験談③ – 即興の「良し悪し」はどうやって判断する?

身体の自由とは何か?①──関節や筋肉

「身体の自由」とは、私たちが想像しているほど確かなものではありません。ここではふたつの観点に着目してみましょう。

ひとつは、関節や筋肉といった身体の構造のことです。

たとえば肘は内側に曲がるようにできています。肘を外側に曲げることはほとんど不可能です。実は私たちが「自然に動いている」というとき、こういった身体の構造が、無意識のうちにその動きを律しています。無理やり構造に逆らう動作をすれば、身体を痛めることになりかねません。

自由に動いてください、と言われたとき、私は、私たちの身体が暗黙のうちに可能性を整えたなかで「自由に」動きます。その暗黙の制限に逆らうには、力と意志が必要になります。 

私たちの身体は、手や足、首などの各部位がバラバラに存在しているわけではなく、全身が有機的につながっています。部位ごとでは不可能に思える動きでも、身体全体のつながりのなかでフローが生まれると、その限界を超えられる場合があります。

その全体性を生み、統制するものとして、たとえば呼吸があり、神経のバランスや、身体の暖かさ・冷たさといった感覚があります。

ここで一度、冒頭の女性の動きを振り返ってみましょう。彼女は、“両足で直立し、両腕の肘から先をくるくる回しながら、時々、つま先を床につけてくるっと回し”ていました。この動きは、身体の構造にしたがって動きが生まれているので、無理のない即興である、と言えます。一方で、身体の各部位を有機的にまとめ上げ、全身の流れにつなげるような動きは感じられませんでした。

身体の自由とは何か?②──身体の重さ

もうひとつの観点は身体の重さです。

まず、私たちの身体は常に、重力によって下に引っ張られています。身体表現のワークショップに通うと、歩くとか跳ねるといった基本的な動作も、身体の精妙な統制のもと行われていることに気がつきます。

私自身、「歩き方がわからなくなる」という体験をしたことがあります。その感覚から踊りが始まるのだ、と言われました。 重力に自然に従えば、我々は膝を折り、頭を垂れ、床にひざまずき、倒れ込みます。一度倒れ込んだ姿勢から起き上がるのは、なかなか難しいことです。腕をついて上体をヨッコイショと起こすのも場合によっては困難で、たとえばらせん状に身体をうねらせて徐々に起き上がるとか、そういう技術が必要になります。 

冒頭の女性については、彼女が二本足で直立し続けていたということに注目しなければなりません。そこには、彼女なりの何らかのルールがあり、彼女がこれまで送ってきた人生が垣間見える、とも取れるかもしれません。

では、果たして我々は、彼女に「まっすぐ立たなくてもよい」と伝えるべきなのでしょうか?

体の自由を受け入れるのか、外へ向かうのか

非常にアンビバレントな表現になりますが、自分自身への深い信頼とともに、自然な動きの延長上でぐっと身体が伸び上がったり、両手を広げたりしている様は、ときに感動的でもあります。コミュニケーションや成長へと開かれることばかりが、人生の価値ではない、ということを強く感じます。そして、そのような肯定の場に救われる人も多くいるでしょう。

そのワークショップは、多様性を尊び、マイノリティーへの配慮のなかで抑制的で静かな即興を行う会でした。それはとても素晴らしい理念であり、敬意を払うべきものです。

だからこそ、即興に馴染んできて、自分自身の内面性に向き合う瞑想的な踊りから、より外に、他なる存在に向かう準備ができた時、そのワークショップからは離れることになるのかもしれません。繰り返しますが、「そうなるべきだ」と言いたい訳ではありません。自然な運動のなかで自分の内面と向き合う時間はかけがえのないものです。そして、自身と向き合う他者の姿を映し鏡にして、他の参加者もまた自身を反省し、普段抑圧している自身の身体と向き合う時間を得るのです。

身体の自由をそのまま受け入れるのか、それとも外に向かうのか。どちらにも理があるだけに、どちらかを選び取るのは難しい問題だと思います。次回、また考えてみようと思います。