『作品 -俳優とヴァイオリニストによるインプロヴィゼーション』2023/1/28 開催!

フリー・インプロヴィゼーションは本当に『フリー』なのか?

フリー・インプロヴィゼーションは、本当に『フリー』なのだろうか? これは、フリー・インプロヴィゼーションということばが登場し、ある程度年月が経ってきてから、しばしば話題にのぼる問いかけです。

フリー・インプロヴィゼーションの「フリー」は、「自由」と「解放」?

フリー・インプロの『フリー』には、個人的な解釈の違いはあるにせよ、ざっくりと2つの側面があると考えています。(辞書的な意味ではなく、『フリー・インプロ』を解釈する上での側面です)

  1. 自由
  2. 解放

この2つは、似ているようで違います。「自由」とは、なにも制限されていない状態を指します。

しかし「解放」とは、自由の前段階です。つまり、なんらかの制限を受けている人が、その制限から自由になる行為や状態のことを指しています。

フリー・インプロヴィゼーションは、おそらくその誕生背景に「解放」があります。ジャズ、クラシック、といったさまざまな言語・文脈から解放されることを望んだひとびとが、そのための手段としてたどり着いたのが『フリー』インプロヴィゼーションでした。

どんな言語にも縛られない。あるいは、どんな言語を使ってもいい。

これまでの文脈から「解放」され、「自由」でありたい。

これはなにも想像だけでなくて、フリー・インプロヴィゼーションにまつわる様々な書籍やテキスト、証言を紐解いてゆくと、言い方こそ違えど、多くのフリー・インプロヴィゼーションの実践者がこのような思いを口にしています。

誕生から半世紀、文脈や言語を得たフリー・インプロヴィゼーション

でも、ここに『フリー』であることの矛盾が生じます。

「解放」と「自由」を(多くの場合は)目指して誕生したフリー・インプロヴィゼーション。それらは半世紀経ち、成長し、その結果、何を得たのか?

そう、言語です。

フリー・インプロヴィゼーションは、『フリー・インプロヴィゼーション』自身の文脈や言語を獲得しました。つまり、ある一定の人々のあいだで、「これこそがフリー・インプロヴィゼーションだ」という、共通の認識を得るようになりました。

*フリー・インプロヴィゼーションは言語を持たない/言語を問わないという話についてはこちら。

たとえば、フリー・インプロヴィゼーションのライブを聴きに行ってみましょう。プレイヤーにも観客にも、みんなそれぞれのパフォーマンスに文脈があり、言語があり、価値観があります。みんなそれぞれに「これがフリー・インプロヴィゼーションだ」と思うものが、あります。

そこでとあるプレイのとき、多くの観客が「おっ、いいね!」と盛り上がったとします。このとき、この小さなフリー・インプロのコミュニティの中に、「これがよいフリー・インプロヴィゼーションなんだ」という意識が、一瞬──あるいは、そのコミュニティが解散するまで永続的に──形成されます。これが、このコミュニティ内で共有される、フリー・インプロヴィゼーションの文脈です。

あるいは名高いパフォーマー、評論家、メディアや、インフルエンサー──多くの発信力を持つ誰か/何かが、「これがよいフリー・インプロヴィゼーションなんだ」といったら?

「自由」で「解放」されているはずのフリー・インプロヴィゼーションは、「フリー・インプロヴィゼーションとはこういうもの」として、どんどん限定されてゆきます。というより、おそらくそれは、とっくに起きてしまっています。

フリー・インプロヴィゼーションの文脈について

フリー・インプロ自体が文脈を持ちつつある現象については、すでに多くの書籍等で語られています。

例えば音楽家・大友良英氏は著書「MUSICS」(岩波書店)の《第4章 音響》で、この問題について掘り下げていますし、ジョン・コルベット氏の著書「フリー・インプロヴィゼーション 聴取の手引き」では、ストイックなフリー・インプロではない即興を実践するミュージシャンを取り上げています。

もういちど、考えてみましょう。いま、フリー・インプロヴィゼーションは、本当に「フリー」なのでしょうか?

フリー・インプロヴィゼーションをことばで語ることで失われるもの、繋がれるもの

さて、ここまでこの記事を読んでいて、「どの口が言うんだ」と思った方も、いるかもしれません。

つまりフリー・インプロヴィゼーションとは、それについて語る人が多ければ多いほど、それについて具体的に、“わかりやすく”、“やさしく”、“ていねいに” 語れば語るほど、その『フリー』が失われてゆくのではないか──この、WEBマガジン「インプロ・りぶる」みたいな存在のせいで。

音楽家や音楽愛好家の、即興演奏ができるようになりたい、という声は少なくありません。

彼らの中には、譜面に追われる毎日が当たり前、という人々がいます。そしてふとしたきっかけで、フリーの即興演奏を目の当たりにし、激しい憧れを抱くのです。──自分も、自由な即興演奏をやってみたい!

では、そんな人々に、実際に自由な即興──「フリー・インプロヴィゼーション」を知ってもらい、実践してもらったり、聴いてもらうには、どうすればいいだろう?

そのためにはまず、フリー・インプロや即興演奏について、基本的なことからていねいに、やさしいことばで語るメディアが必要ではないか?

(中略)

ふとした思いから、フリー・インプロヴィゼーションや即興演奏に興味を持ってくれた人に、「入り口はここですよ」と道案内をする存在でありたい。それが、「インプロ・りぶる」の主なミッションです。

「インプロ・りぶる」について https://free-impro.jp/about_us

これは言い換えれば、フリー・インプロヴィゼーションを体系化し、わかりやすく解説し、わかりやすく「こういうもの」と提案することになります。その第一歩として書かれた記事が「【はじめに】フリー・インプロヴィゼーションとは?」でした。

しかし、「インプロ・りぶる」のこのミッションこそが、フリー・インプロヴィゼーションを『フリー』でなくしてしまうのかもしれません。私たちがこの不思議な世界を、多くの人に開こうとすればするほど、『フリー』は失われてゆくのかもしれません。

ですが、あるいは──

あるいは、多くの人がフリー・インプロヴィゼーションに関われば関わるほど、多くのことばでフリー・インプロが語られれば語られるほど、すでに形成された「言語」はかき回され、崩れてゆくのかもしれません。

なぜなら、いまなお、フリー・インプロヴィゼーションのシーンは盛んで、さまざまな団体が関心を持ち、さまざまな分野のあらたな人々が実践しようとしていることも、また、事実だからです。

いまはまだ点と点同士になっている彼らを繋ぐことができたら、そこからまた、あらたなフリー・インプロヴィゼーションの点が生まれ、殖えてゆく。その可能性も、あるかもしれません。

フリー・インプロヴィゼーションのいま、そしてこれから。あなたは、どう思いますか?

参考資料

【WEBテキスト】

細田成嗣: 来たるべき「非在の音」に向けて――特殊音楽考、アジアン・ミーティング・フェスティバルでの体験から 細田成嗣 | ASIAN MUSIC NETWORK

【書籍】

大友良英: MUSICS(岩波書店/2008)
ジョン・コルベット(工藤遥訳): フリー・インプロヴィゼーション聴取の手引き(カンパニー社/2019)