【前編】私とフリー・インプロヴィゼーション──即興ワークショップ体験談

執筆: 松岡大輔

今回は、フリー・インプロヴィゼーション──自由な即興のワークショップに長年通い続け、大事に関わり続けている方の体験談をご寄稿いただきました。

松岡大輔(まつおか だいすけ)さんは、各地のワークショップに参加しながら、フリー・インプロヴィゼーション(主に踊りなどの身体・またはヴォイスによる表現)を続けて来られました。ここ何年かはフリー・インプロの実演から少し離れ、ジャズの勉強をしていらっしゃいます。

そんな松岡さんは、どのようにしてフリー・インプロヴィゼーションに出会い、そのワークショップでどんな経験をされてきたのでしょうか。また、音ではなく、身体表現による即興では、どんなことを心掛けているのでしょうか。ご本人の体験談を書いていただきました。

【はじめに】フリー・インプロヴィゼーションとは?

1. はじめに

1.1 ゼロ年代の不安な青年

いまではゼロ年代と呼ばれたりする2000年代、私は東京で暮らすひとりの不安な青年でした。人付き合いやコミュニケーションが大変苦手で、友人も作れず、なんとなく居場所がない気分で学校に行ったりバイトをしたりして過ごしていました。

アンダーグラウンドな音楽が好きで、ライブには時々出かけました。ライブ会場で手にしたチラシで、あるフリー・インプロヴィゼーションのワークショップについて知りました。当初はそれがどういうものかもよく知らずに、とりあえず出かけて行って参加しました。前後関係や正確な時期はわかりませんが、結局東京を離れて就職するまでの間、いくつかのワークショップに断続的に通い続けました。

そこで今回は、当時通ったワークショップについて回想しながら、あらためてフリー・インプロヴィゼーションについて考えてみます。昔の話のようですが、これからフリー・インプロヴィゼーションに関心を持つ人にとってなにか参考になることがあるのではと思っています。

1.2 「できない」から通い続けた

とはいえ、「フリー・インプロヴィゼーションに出会って私の人生は劇的に改善しました! 人付き合いもコミュニケーションも思うがままです!」というようなお手軽な話ではありませんでした。

いまにして思えばかなりの時間は、自分がフリー・インプロヴィゼーション「できない」という事実と向き合い続けたように思います。それでも通い続けたのは、この「できない」を乗り越えることには自分にとって大きな意味があるだろうという漠然とした期待があったからでした。そして、それは実際にそうだったということが、いま思うとよくわかります。

あっさり褒められたりしていたら、むしろそこでやめてしまったかもしれません。なんだかできてないね、という優しくも厳しい視線があったがゆえに、何年もしつこく通うことができました。

2. 「あ」で踊る──岩下徹さんのワークショップ

2.1 「型」とか、あるんですか?

ある時、ダンサー・岩下徹*(いわした とおる)さんのワークショップで集団即興のダンスをした際に、その日初めて集団での即興に参加したという青年が私にこうたずねました。

「どうすれば、動けるんですか。私は踊れません。なにか「型」(かた)とか、あるんですか」

彼はその日、集団即興の真っ只中で、動けずに立ちすくんでいたように思います。そんな彼から見れば、できないなりに何年か続けていた私はなんとなく踊れているように見えたのでしょう。思いがけない一言ですが、いきなり集団即興の場に飛び込んだ青年の感想としては率直なものだったのだと思います。

* 岩下徹……舞踏集団『山海塾』のダンサー。日本国内各地で舞踊、即興のワークショップを行なっています。即興ダンスワークショップの会についてはこちら

2.2 あなたは「自由」に踊れるか

例えば岩下さんのワークショップでは、「『あ』で踊ってみましょう」というような指示が出されます。これは「あ」という音でも、「あ」という文字の形でも、「あ」から連想するものでも、なんでもよいです。そして指示されるのはこのひとつのイメージだけです。

このイメージはいわゆる動作の型ではありませんし、音真似でも伝言ゲームでもありません(もちろん踊りながら『あ』と叫んでも一向にかまわないのですが)。むしろ、パントマイム的なミミックの動作ではうまくいきません。我々はここで「あ」という文字自体の特性を通じて、それを受け取る自分自身の感覚へと向かいます。「あ」という文字を与えられたことによる感覚やバランスの変化や、視線の揺れ、神経の高ぶりや震え、自身の熱や呼吸を感じます。そしてそれを踊るわけです。

唐突に「いまから自由に踊ってください」と言われたとして、あなたは自在に踊ることができるでしょうか。ひょっとしたら習っているヒップホップ・ダンスのフレーズを使ってみたり、テレビで見たタレントのものまねをしてみたりするかもしれません。しかし、それは「自由」に踊っているといえるのでしょうか。さらにいえば、それが観客の前だったらどうでしょうか。あるいは誰もいないひとりきりの独房だったらどうでしょうか。

2.3 表現へのためらいと解放

あるいはこう言ってもいいでしょう。我々はなぜ「自由」に踊れないのか。私がフリー・インプロヴィゼーションを始めた当初突き当たっていた「できない」という思いは、もっぱらこれに関わります。ここにあるのは「ためらい」の感情です。

なぜ、私たちは「ためらう」のでしょう?

フリー・インプロヴィゼーションは、徹底的に拠り所のないものです。正解があるわけでも、確とした参照元やイディオム*があるわけでもありません。そこで立ちつくしてしまう。なにをしてよいかわからなくなってしまう。そういうことがありました。

岩下さんの場合、例えば「あ」であったり、なにか音楽を流してみたりして、ひとつのきっかけを作ります。それはきっかけであり、一種の口実ですから、なにかを強制されて従うわけではありません。

「型」はありますか、とたずねたあの立ちつくす青年の姿は、私自身の姿でもあります。大事なことは、まず一歩動き出すことです。あとは動きが動きを呼び、周りの人との関係が生まれ、踊りの場が生まれていきます。この最初の一歩が、解放です。正解も不正解もなく、上手いも下手もなく、ただ自分自身がその瞬間にきっかけを受け取り、わずかに動く。これができるために、私はずいぶん苦労したように思います。

*イディオム……音楽やダンスなど、ある芸術をそれたらしめる様式や言語のこと。

3. していいこと、してはいけないこと──向井千恵さんのワークショップ

3.1 吉祥寺の夜のカオス

吉祥寺のコミュニティセンターの地下で、向井千恵*(むかい ちえ)さんのワークショップは開かれていました。ある人は楽器を持ち、ある人は踊り、ある人は声を発する。なにをしたらよいか決めかねてただウロウロしているだけの人もいます。向井さん自身、楽器はほとんど演奏せずに即興舞踊を踊っています。

こちらは特になんのきっかけもイメージも与えられません。ただ場と、その都度共演する見知らぬ人々の存在があります。

決して独舞や独奏にならない、しない、というのがこのワークショップの基本姿勢だったともいえると思います。原則としてフリー・インプロヴィゼーションを集団即興という側面で捉えていました。それは独奏ではないということは当然ですが、かといって必要以上に対話的であったわけでもありません。

なにかに応答したり、共同で場を作ったりするということよりむしろ、個が個であることを突き詰めた結果そこに場が生まれるということが基本にありました。ですから、音がない場が生じて黙々と皆が踊ったりウロウロしたりしていたとしても、それを察して音を補うようなことをする必然性はないわけです。

傍から見たらなにかわけのわからないことをしている集団に見えたと思いますが、そんな会が当時定期的に開かれていて、私もしばらく参加しました。

* 向井千恵……インプロヴァイザー。ダンス、ヴォイス、パーカッションなど様々な手段で即興する。WEB: http://www.kilie.com/mukai/

3.2 なんでもあり、だが「暴力」はダメです

上に述べたように、方法はなんでも構いません。楽器を弾いてもいいし、踊ってもよい。歌っても、叫んでも構わない。床を叩こうが飛び跳ねようが、いわばなんでもいい。

場としては大変混沌としています。しかしそこで一歩引いて「観客」になってしまう人はこの会には向きません。場全体でうねっているある種の情動の渦に自らの情動をもって飛び込むような、得体の知れない動物の一部に自らを変化させるような、そのような表現がここでのフリー・インプロヴィゼーションということになります。

しかし、なんでもいいとはいえ、やはり人と人とが交差する場であるのだから、してはいけないことがあります。

例えば、他の人の発する音を圧するような大音量を出す行為、他の人の動きを支配するような行為、なにかを強制したり無理強いするような行為、他の人を傷つけるような行為等。つまり「暴力」です。

他人の情動の渦に自らの情動を混じり合わせていく場ですから、表現が昂ぶればそれだけ情動も昂ぶります。他人に対して過剰な行動に出てしまう可能性もあるわけです。

ですが、それでも「暴力」は手段として否定されなければなりません。それがこの会において最低限守られるべき規範でした。

3.3 社会性と個の自由

ある夜、コミュニティセンターの地下室の全面を借りていたはずが、手違いで半面だけ借りたことになっており、もう半面では卓球の練習をしているという事態になったことがありました。これではできませんね、と向井さんが言って、我々は連れ立って外に出ました。夜の吉祥寺を抜けて井の頭公園の林の中に入り、暗がりで僅かな気配を頼りに静かなフリー・インプロヴィゼーションをおこないました。

夜の井の頭公園ですから、散歩する人もいる。木立の暗がりの中にいるとはいえ、大きな音を出したりはできません。我々は静かに、微かに、ゆっくりと集団即興をおこないました。

フリー・インプロヴィゼーションをおこなうときの場は、それだけでひとつの特異な集団になります。そこでふたつの社会性について考えます。まず、反社会的な集団にならないということです。通行者に通報されてしまうようなことはしない。

そしてもうひとつ、フリー・インプロヴィゼーションをおこなう集団自体がひとつの社会であるということを考えます。

フリー・インプロヴィゼーションは個々の「自由」を追求することという側面があります。しかし、そうでありつつ同時に、それはひとりで完結する行為ではない。絶えず個である自分自身とそれぞれ個である他人のせめぎあいがあります。居心地のよいワークショップはこの社会性のせめぎあいが程よく場作りの段階で和らげられています。

「自由」に踊れと言われて立ちすくんだ青年。我々は個としての「自由」を、小さな集団の中の社会性を通じて実現するのかもしれません。そのためにも、最低限「暴力」はいけない、と明言しなければならないのだと思います。

4. 上達すること、あるいは声と身体──巻上公一さんのワークショップ

4.1 「達人」巻上公一さん

巻上公一*(まきがみ こういち)さんを知ったのは、まず声による表現を通じてでした。倍音唱法やヴォイス・パフォーマンスに関心を持っていくつかライブなどに参加するうちに、巻上さんのワークショップの存在を知りました。

ヴォイス・パフォーマンスや倍音唱法(トゥバのホーメイ)を教えるワークショップもありましたが、当時参加したワークショップではむしろ、声を含めた身体を使ったインプロヴィゼーションを試みていました。巻上さん自身、中国武術や操体術に造詣が深く、なんというか表現者としての迫力のある方でした。

ですから、巻上さんはなにをやってもとにかく「上手い」。ヴォイスもホーメイも身体の動きも、いずれも迷いなく流れに乗ってなだらかに展開します。同じフリー・インプロヴィゼーションであっても、巻上さんの自由即興には混沌とした感じがなく、非常にクリアに整っていながら端正にまとまらない破調がある。フリー・インプロヴィゼーションも実践者によって様々です。

* 巻上公一……インプロヴァイザー。ノンジャンル音楽ユニット『ヒカシュー』リーダー。WEB: http://www.makigami.com/

4.2 声と身体

なにか自由に表現してみてください、と言われたら、多くの人がとりあえず声を出してみるのではないでしょうか。声はもっともプライマルな表現のツールであり、しかもそれは呼吸と深く関わります。声には個性が出ますが、声は鍛錬と意識の持ちようで大きく変わるものだということもまた、私はワークショップを通じて学びました。

巻上さんのワークショップに通い始めたばかりの頃、声を使って自己紹介してくださいという指示があって、参加者が交互に声で自己紹介をしていきました。私は少し奇をてらってしまい、身体を大きく後ろに反らせた状態で喉歌のまねごとをしましたが、すかさず巻上さんに「それは身体を痛めるからやめなさい」とたしなめられました。

発声には身体のメカニズムが関わっており、それを無理やり捻じ曲げたり、要らない負荷をかけたりした状態で発声すると、端的に身体を痛め、壊すことに繋がります。そういう意味ではここには「正しい」発声「正しい」姿勢があります。それを踏まえた上で、ホーメイという多くの日本人にとってはまるで未知の喉の使い方を学びます。

生理学的な「正しさ」を踏まえた上で、身体の未知の領域に対して開かれていく。自身の感覚が喉と呼吸を起点に拡張されていく時、私はフリー・インプロヴィゼーションの芽のようなものを掴めたような気がしました。そして、このようなある根本的な「正しさ」の感覚が、巻上さんの表現を混沌としつつも整序されたものにしているのではないかと思います。

4.3 フリー・インプロヴィゼーションは「上達」してもよいのか?

例えば向井さんのワークショップは、基本的に前提事項はなく、せいぜいどんな楽器を携えていくかとか、その日の体調とか、そのくらいのことがあって、そのうえで表現自体は場の雰囲気や相手の情動、その都度の展開に応じて自在に変わります。自在に変化すること自体の中に「自由」があり、自在に変化しつつもそこに小さな社会が形成されるということが眼目であったともいえます。

それに対して、巻上さんのワークショップでは、起点としての身体、声、呼吸という観点においてはその構造に従ったベーシックな「正しさ」があり、その上で各自の表現がある。身を投げだした情動の塊という怪物のようなものに巻き込まれていくというよりは、いわば技術・技と呼んでもよいものを学ぶことに主眼があります。そして、学ぶことで過去の自分が拠って立つものから「自由」になります。各個人が「自由」になることでその場の上下がひっくり返るわけです。

巻上さんがなにをやっても「上手い」というのは、身体的な「正しさ」を鍛え、その上で自在に様々な技術を操ることができるということです。それは特定のパターンやイディオムに凝り固まるという意味ではなく、技術的に「上達」することによって、表現におけるある種の偏見や固定観念(『ためらい』ともいえるかもしれません)から「自由」になるということです。