私とフリー・インプロヴィゼーション──即興ワークショップ体験談【後編】

松岡大輔(まつおか だいすけ)さんによる、フリー・インプロヴィゼーションのワークショップ体験談・後編です。

前編では、さまざまなワークショップごとに得た経験や考え方──「自由」に踊ること、フリー・インプロヴィゼーションが「上達」することなど──について書かれました。

後編では引き続き、音楽家・大友良英氏のワークショップや、音(音楽)と身体の関係、障がいのある方を積極的に受け入れる会について触れていきます。

5. 聴くことから始める──大友良英さんのワークショップ

5.1 planBで耳を澄ます

ここまで、フリー・インプロヴィゼーションにおける「表現」について、具体的に書いてきました。しかしそもそも、どう言われても「表現」というのはなんだか苦手だ、という人は当然いるでしょう。なぜ苦手だと思うのでしょうか。

それは「表現」が「自分の内側にあるものを人前でさらけ出すこと」だという考え方から来ているのではないでしょうか。そしてその「自分の内側にあるもの」はしばしば、暗い思いだったり、哀しみや苦しみだったり、誰にも言えない秘密であったり、後ろめたい記憶だったりするのではないでしょうか。

そんなものをさらけ出すのは恥ずかしいことだ、と思うから、自分は表現が苦手だと考える。

そのような「表現」の定義が合っているかどうかはここでは省きますが、大友良英*(おおとも よしひで)さんのワークショップで行われていた「表現」は、そういった固定観念を鮮やかに覆してくれました。コンセプトはシンプルで、「音を出そうと考える前にまずよく聴きましょう」ということです。

そしてその際の「聴く」対象は、なにも楽音に限りません。例えば「planB」という中野通り沿いのライブスペースでのワークショップでは、まず地下スタジオのドアを開け、参加者が車座になって目を閉じ、しばらくの間じっと「聴く」ことから始まります。その後、大友さんのファシリテーションで、各自なにを聴いたか、どんな音が聴こえたかを共有します。人の声、車の音、それも大きな車かスクーターか、あるいは隣の人の呼吸音とか、自分の鼓動という人もいます。とにかく事前に想定する以上に多彩な音が聴こえているのだという事実を確認します。

その上で、今度は集団即興的に演奏するという方向に向かいます。

ハンドサインによる即興演奏のワークショップ

* 大友良英……音楽家。作曲、ギターやターンテーブルによる即興演奏を行う。WEB: https://otomoyoshihide.com/

5.2 最小限のルールでアンサンブルを作る

参加者は事前の指示で、音の出るもの(いわゆる楽器に限らない)をひとつ以上持ってきています。そして、できるだけヴィブラートのない真っ直ぐな持続音が出るものにしてほしい、という指定があります。弦楽器を持ってきた人もいましたが、リコーダーを持ってくる人がわりといたように思います。

その上で、なにか音が聴こえたのをきっかけにして音を出し、少し長めに音を伸ばすこと、という指示があります。
アンサンブルのルールはほとんどそれだけです。先程述べたように、「聴こえてくる音」というのは楽音に限りません。他の人に聞こえないような微かな音を聴き取れる人もいれば、もっぱら特定の誰かの音が気になる人もいるかも知れません。

重要なのは、ここでは「音を発する」という「表現」行為が、自分以外のなにか(=音)をきっかけとして、それに対して発せられるということです。したがって、ここではなにか暗い内面を吐露するというような「表現」観は完全に転倒しているわけです。

大友さんはその場で指揮者の立場ですが、もっぱらじっと座って、その場で鳴っている音に耳を澄ましています。車座の真ん中でじっと耳を澄ましている大友さんの姿があることで、場がぐっと締まるのだから不思議なものでした。

5.3 フリー・インプロヴィゼーションによる音楽演奏の原体験

大友さんは、フリー・インプロヴィゼーションによる音楽表現を積極的に実践しており、当時、東京にはインプロヴィゼーション・ミュージックのシーンのようなものがあったと思います。ノイズともジャズとも違う独特の音楽体験があり、私もしばしばライブハウスでじっと耳を澄ますようなライブに通いました。

それについての評価は様々あると思いますが、ひとまず私にとっては大友さんの実践がフリー・インプロヴィゼーションによる音楽に接した原体験であり、原点のひとつであると思います。

音を出す前にまずじっと聴くこと。出した音でことさら主張しようとするのではなく、その音がその場の他の音とどのように溶け合うかをさらによく聴くこと。音と音の相互干渉によるモジュレーションにじっと聴き入ること。

これは精神論のように聞こえるかもしれませんが、少なくとも私にとっては音楽を演奏するという行為の意味を変えてしまうくらいに重大な考え方の転換でした。

6. 音楽と表現の微妙な関係

6.1 音楽が鳴る時、音楽が止む時

フリー・インプロヴィゼーションのきっかけと場作りのために音楽が使われることはしばしばあります。既成の音源を使うこともあれば、演奏家が場に参加してフリー・インプロヴィゼーションの一部として即興的に音楽を奏でるということもあります。

音楽のイメージ喚起力は強力なので、既成の音源を使うと影響されてしまうということはあると思います。あえて特定方向への影響を作り出す目的で選曲するということもあると思いますが、音楽を聴いてしまうと身体の微細な動きに対する洞察や直感が分散してしまうのではないかとも感じます。

フリー・インプロヴィゼーションの際には、僅かな身体のバランスの崩れや、神経の張り、呼吸といった、微視的な要素に感覚的にフォーカスして、それを表現に結びつけていくという繊細な作業が求められます。音楽は特定の方向への情動の揺れを外的に作り出します。そのため、即興を行う人と、その人自身の身体の関係は、幾分間接的になります。それ自体、手法として良いとか悪いとかいうことではありません。

ただ、私はむしろ、鳴っている音楽が止む瞬間に、じっと黙想する気配が降りてくるようにも思います。

演奏家がひとりの即興者として場に参加する場合はまた別の話です。

6.2 場を作ってしまう音の両義性

向井千恵さんは、コミュニティセンター地下でのワークショップをプロのパフォーマーで実演する『透視的情動 Perspective Emotion』というイベントを定期的に開催していました。私は何度か観に行きましたが、ひとつ記憶に残っていることがあります。

イベントが始まると、パフォーマーは思い思いにスタジオや講堂の空間に散らばって自由即興を始めるのですが、その空間に低いドローン音を鳴らすミュージシャンがいました。

確かにその音が鳴ることである種の場が作られ、雰囲気が作られ、気分が持続する感覚が得られるということはあると思います。他方でやはり、その音が場をある程度支配してしまうような感覚もあります。

例えばデレク・ベイリー*のギターソロを聴くと、音がスカスカであるという印象を受けます。一方、フリー・インプロヴィゼーションやノイズ寄りのパフォーマンスでは、基本的に音が途切れる瞬間を作らないのがお約束であるともいわれます。

どちらが正しいということもないのかもしれませんが、個人的にはデレク・ベイリーの「隙間」にも可能性を感じます。

集団即興の場にドローン音やメトロノームのクリック音を鳴らす方法は、それ自体有効であると思います。他方で、それは「隙間」を埋めてしまう行為ではないか、「隙間」でふっと身体に帰ってくる意識もあるのではないか、とも思います。

* デレク・ベイリー(1930-2005)……ギタリスト、インプロヴァイザー。今でも親しまれている書籍に、フリー・インプロヴィゼーションやさまざまな即興音楽について著した「インプロヴィゼーション―即興演奏の彼方へ」がある。

6.3 みんなで、ひとりで

集団でのフリー・インプロヴィゼーションにおいては、前に述べたように、その集団において一種の社会が立ち現れます。個々のパフォーマーは互いに真似たり、共感したり、反応したり、反応しなかったり、など様々な形で個の「自由」を社会性に沿って実現します。

逆説的に、こういったフリー・インプロヴィゼーションの社会的な側面が実現するためには、個々のパフォーマーが個として「自由」であらねばならない。個として「自由」だから社会が生まれるのだし、社会の内にあるから個が「自由」であり得る。

背景でドローン音が鳴っていると、個々のパフォーマーは自身の行為の「隙間」を意識しなくて済むようになります。つまり、「隙間」を、そしてそこで立ち表れる沈黙と内省を、ドローン音に委ねて手放してしまう。そのように思うから、私は「両義性」があると感じました。

ドローン音が鳴っていることで救われる、気持ちが楽になってパフォーマンスできる、という方ももちろんいらっしゃると思いますが、個人的な理想としては、やはり(比喩的に)音と音の「隙間」の内省が、あるいはそれこそが、フリー・インプロヴィゼーションの大事な要素ではないかと勝手に考えています。

7. フリー・インプロヴィゼーションと障がいの関係

7.1 障がいのある人から学ぶこと

フリー・インプロヴィゼーションは臨床心理の理論との相性がよいようで、障がいのある方の参加を積極的に受け入れているワークショップもありました。例えば、前編でお話ししたダンサー・岩下徹さんのワークショップがそうです。と言ってもそれは、「健常者」が「障がい者」を治療してやる、という傲慢な話ではありません。

健常者の方は、障がいのある方々にはそれぞれ特性があり、できることとできないことがはっきりしているように思い込んでしまいます。しかし、障がいのある人に対して周囲が「あなたにはこれができない」とラベリングしていたことが、実際にワークショップに参加したらできた、ということもありました。

フリー・インプロヴィゼーションは心理療法的な側面も持ちますが、治療そのものが目的ではありません。第一義的には表現行為であるので、表現者が障がいのある人であろうが障がいのない人であろうが、心を打つ即興は、それ自体素晴らしいものです。

7.2 多様な人たちが生き生きと自己表現する場

岩下さんの即興ワークショップでは、社会的マイノリティの人も、社会的マジョリティの人も、互いに作用し合い、生き生きと自己表現していました

障がいのある人とその保護者、障がいのない人、さまざまな性・年齢の人。静かで穏やかな身体の動きになる回が続くかと思えば、ある日は力強い表現をするパフォーマーが参加することで、場の空気がガラッと変わることもありました。

他方、特にマイノリティの立場とマジョリティの立場が入り混じる場合、その表現が持つ「強さ」を考慮しなくてはいけないのかもしれません。声の大きい人、確かな力や技を持つ人のパフォーマンスは、身体的・精神的・あるいは社会的に弱い立場にある人たちの場を、無意識のうちに引っ張っていく作用がある、とも言えます。

確かにフリー・インプロヴィゼーションは、私の言い方でいえば「暴力」以外であれば手法は問わないものです。しかしそこで個として「自由」に振る舞うことと、その場の小さな社会を成り立たせることは、実は表裏なので、「暴力」以外ならなにをしてもいいというのは語弊がある表現かもしれません。

果たしてフリー・インプロヴィゼーションとはなんなのか。私はなにを求めてワークショップに参加していたのか。なんだかまたわからなくなってきました。

8. おわりに

8.1 「型」はありません

突然誰かに「いまからフリー・インプロヴィゼーションです」と言われて舞台に上げられたとしたら、誰でも「なにかしなければ!」と当惑すると思います。

ですが、この当惑が罠です。まずはそこで待ちます。きっかけの音を待つのかもしれないし、身体から微細な動きが生まれる感覚の訪れを待つのかもしれません。慌てずに待っているうちに隣の誰かが動き出すかもしれません。ふっと吐いた息で少し身体が丸まり、そして大きく吸う。吸えば顔が前を向いて、周りの景色が見えるかもしれません。

周りを見ながら、個人の身体の細部にまで意識を巡らせて、ひとりであることとひとりではないことを同時に感じます。

そして委ねてしまう。

委ねつつ、自分の身体感覚を失わなければ、きっとなんらかのフリー・インプロヴィゼーションができると思います。私はそれができないなりに多少わかってくるのに何年もかかりましたし、こんな理屈っぽい言葉を読んでもわからないと思われるかもしれませんが、なにかの参考になればと、昔の話をしてみました。

8.2 とりあえず行ってみよう

フリー・インプロヴィゼーションに興味のある方は、ぜひ実践してほしいと思います。ただ、ここまで読まれた方ならわかるように、こういう会の運営は非常に繊細で、居心地のよい場作りは大変難しいものです。大勢で押しかけて台無しにするようなことも簡単にできてしまうでしょう。自己本位な動機で他人の大事な空間を踏みにじってほしくはありません。

それを踏まえた上で、それでもなお興味を持った方が少しでもいたなら、それは嬉しいことだと思います。


この記事を書いてくれた、松岡さんにとっての「即興」とは?
松岡大輔さん
松岡大輔さん

自由と共同、個であることと共にあること。