【連載】即興ワークショップ体験談① -「分析的」をひっくり返したい

執筆者: 松岡大輔

私は以前関東に住んでいて、即興のワークショップによく通っていました。地方に移住してからは、なかなか即興ワークショップなどに参加する機会がなく、その代わりというわけではないですが、ジャズや能楽について学んだり教わったりしています。

そこでたまに言われるのが「あなたは分析的ですね」ということばです。褒められているのかもしれませんが、これを言われるとなんとも悔しい気分になります。

熟達したインプロヴァイザーの方などは、即興の際には身体があたかも勝手に動いてしまうかのように、自在で自由な状態になる、と言われたりします。例えばそれが観客の存在を前提としないワークショップなのか、あるいは客席と舞台がある公演という形なのかによって変わってくることもありますが、今回は観客のいないワークショップでの出来事をベースに書いています。

1. さまざまな身体のありかた

関東に住んでいた頃、2000年代にしばらく通った、ある即興ダンスのワークショップには、障がいのある方々──例えば言葉を発することができない方や、車いすから降りられない方──が、保護者同伴で参加していました。

そういう方々も含めて即興で踊ります。ずっと手をひらひら回していたり、車いすの上で少し首を傾けていたりと、いわゆる踊り・ダンスということばについて、私が思いこんでいた身体とは異なるあり方がありました。そして、それが間違いなく即興ダンスであると直観的に納得した時に、私の価値観の何かが変わったように思います。

そして、そのダンスの場は、たいていとても静かな、無言の場でした。あの静けさ、穏やかさは一体何だったのだろうかと、思い返すと不思議な気分になります。

無言とは、文字通り「ことばがない」ということです。これは物理的に音声としての声が鳴っていないというだけでなく、ことばが介在しない身体があったということです。分析や批評が介在せず、あるがままの身体が自足し、その場に受け入れられているという充実感がありました。

2. ただ、その人自身の踊り

このような心境については、学問や宗教などで様々な呼称があてられていると思いますが、今回はあえて曖昧に「ことばが介在しない心境」としておきます。

例えば冒頭で述べた、「分析的ですね」ということばは、記号の解釈としては正しくできていますね、という程度のことだと思います。つまり、型や理論に忠実ですね、ということです。これは言い換えると、譜面が身体にまで落とし込めていないということなので、やはり褒められているわけではないのです。あえて自分に厳しく言えば、「稽古不足」のひとことに尽きます。

さらに即興の場合は、そもそも譜面なるものはないので、分析的にやろうとしてもとっかかりがありません。分析的・批評的に型や理論にこだわろうとする限り、いつまで経っても「即興」は始まらないのだと思います。

例えば、そのワークショップの参加者に、ことばや動きに制約があって、踊る時にはまっすぐ立って手を少しくるくる揺らすだけ、という方がいました。一見すると、その人は「障がい」のために、本当ならもっと自分の感情や気分を大きく表現したいところを「不本意に」制限されている、と捉えてしまうかもしれない。しかし、何度かその方の踊りを見ているうちに、それはただ、その人自身の踊りなのだということに気づきました。いわゆる表現的・技術的な要素のない動きで、意識的に到達しようとしてもなかなかできないものなのだと。

自分や他人に対する分析的・批評的な心理を、すっと突き抜けるように見えることがあったのです。

3. 「分析的ですね」をひっくり返せるように

ワークショップに実際に通っていた頃は私自身こんなことを考えながらやっていたわけではないですが、あの即興ワークショップの無言、穏やかさを思い出すと、とても懐かしい気持ちになります。そして、あの場では私自身がいろいろなものをいただいていたのだということも実感します。

世知辛い世間で生きていると、なかなかことばが介在しない心境に立ち返ることは難しく、悟ったと思ったらまた忘れてしまうような情けない日々を送っていますが、せめて「分析的ですね」という先生の言葉をひっくり返せるようになりたいと思います。