執筆者: 松岡大輔
即興には始まりと終わりがあります。始めることで始まり、終えることで終わります。あるいは始めなくても始まっており、終わることがない、という人もいるのかもしれませんが、それはもう常人には及びもつかない世界だろうと思います。普通は始まりと終わりがあるはずです。
即興の「始まり」
始めるのは案外難しい。集団即興において最初の一息を切り出すことは、少し挑戦的で挑発的な行為かもしれないし、セッションの最初のムードを決めることにもつながります。あるいはあらかじめ、ワークショップのリーダーによって最初の一息に関してコンセプトが設定されることもあります。即興における最小限の構成のひとつとして、どう始めるかの決め事があります。
あるいは最初の動きを引き出すために音楽を用いるということもありました。リズムの有無やハーモニー、旋律に従って、少しリラックスした身体が動き出します。ひとりが動けば、それに応じるように他の何人かが動きます。場合によってはこの最初の一息をワークショップのリーダーが担うこともあります。まず動いてみせて、その後の展開は場に委ねる、という形です。
即興の流れ
最初の一息には意志が必要ですが、その後は互いに互いを感じ合い、場の変化に応じて反応し変化することでじわじわと進んでいきます。そして、いったん動き始めた場に対して、全体的な流れに変化を及ぼすような介入をおこなうには、やはり意志が必要です。
例えばある日の会で、何組かのペアを作って即興をする場面がありました。私はその際に、四十代くらいの男性とペアになりました。その人はどういう興味で参加したのかわかりませんが、まっすぐに立って両手をぎくしゃく動かし口をぱくぱくさせてばかりいました。眼の前に見えない板があるパントマイムをしながら水の中で窒息しているような状態です。そして、私は気づいたらその人と同じような動きをしていました。二人して板を眼の前においてぎくしゃく動いている様子は傍目にはユーモラスだったかもしれませんが、その男性が真剣にやっていることは伝わりました。
自ずと相手に影響され、動きを真似るようになりました。その人の、単調だが真剣なその手や顔の動きに対して、相手に変化を及ぼしてやろう、私が変えてやろう、などという発想は出てきません。ただただ真似るのです。それで問題なくワンセッションが成立します。ここでの鏡写しの関係は、共感のようでなにか違う、しかし計算づくでやっているわけでもない、不思議なインタープレイです。
この場合、相手である男性がなにかやむにやまれぬ切実さによって、手と顔の即興を始めました。私はそれに対して反応し、二人がぎくしゃくと動くことがそのペアのダンスになりました。私が、例えば身体をひねるとか、膝を曲げるとか、そういう別の軸による動きを加えて、流れを変えることもあり得たと思います。しかしそのセッションは5分ほどの短い時間で、私は特に考えるまもなく相手の真似をしているうちに時間が過ぎました。ここで私は受動的で、彼は能動的だった、といえるでしょうか。必ずしもそうではないだろう、というのが今の思いです。
即興を通過したとき、私たちの身体は変化する
始めることには意志が伴い、続けることにおいて始まりの一息は流れに溶け込む。私たちはそれがいつどのように始まったかなど忘れて、場の流れへの反応を続けます。そこに介入して不連続的な変化を起こすにはまた別の意志が必要になります。皆が皆、大胆な変化を望み、互いに互いの反復に対する介入を始めればどうなるか――ずいぶん混沌とした場になりそうです。極限すれば、互いが互いに意志によって干渉的に関わり合うことを諦めて、緩やかな場の関係性を重んじながら静かに踊るとき、その即興を通過した私たちの身体は変化します。
変化のきっかけを場から受け取ることはできますが、変わるのは自分自身です。上述の40代の男性はその後何回かワークショップで会いましたが、彼は別にワークショップに参加したことによってダンスがうまくなったわけではないと思います。しかし、それでも即興の時間を通過した彼――彼の身体――はなにか新しいきっかけをつかみ、その後の日常生活を新しい気分で送ることができたのではないでしょうか。そして、その気分を忘れてしまう頃には、またなんらかの形で即興のことを考えるのかもしれません。行ったり来たり、出たり入ったり、忘れたり思い出したりしながら、私たちは「自分がなにを欲しているか」を感じ取ることくらいはできるのかもしれません。