執筆者: 松岡大輔
即興の「良し悪し」はどのように判断すればよいのでしょうか。まがりなりにも演者として即興の場に参加すると、「いまのはよかったよね」「いまのはなんかいまいちだったね」というような感想は都度生じます。そしてそれはなんとなく共演者同士で共有できるものだったりします。
しかし、その「良い」とか「悪い」とかいうときの良さ、悪さの判断は、いったいどのようになされているのでしょうか。
即興は観客が参加するものでもある
プロフェッショナルな即興家は様々な場所・時間に、様々な条件で即興を繰り広げますが、彼ら/彼女らが「プロフェッショナル」であるというのは、単に対価を受け取っているからというだけでなく、やはりその即興が常に一定の水準を超えていることが期待されるからだろうと思います。
この「水準」という言葉も定義が必要です。即興を計る基準があるのでしょうか。
あるいは即興は、観客である他人が見たり聞いたりするものであると同時に、参加するものであると考えることもできます。即興が舞台芸術であると同時にワークショップなどの形で〈演者=観客〉の状態で実践されることが多いのも、即興が鑑賞するものであると同時に実践するものであるということが理由にあるのではないでしょうか。
即興の「良さ」に関するひとつの尺度──心地よさ・気持ちよさ
身体表現による集団即興のワークショップでは、たいてい最初にしっかりストレッチして体をほぐし、軽くウォーミングアップして温めます。床や壁をしっかり使って入念に体をほぐしておくのは、即興を始める前の重要なステップです。身体表現はやはり運動なので、急に無理な負荷をかけることで筋を痛めることもあります。
これは他のダンスや、あるいはヨガなどとも通じるかもしれませんが、親密な空間でじっくりストレッチをして軽く体を温めた状態というのは、本当に気持ちがよいものです。ワークショップ本編はおまけで、実はこのストレッチとウォーミングアップの心地よさのために参加しているのでは、と思えるくらいです。
心地よさ・気持ちよさという感覚は、あるいは即興の「良さ」を計るひとつの尺度になるかもしれません。いわゆる「快」によってことの良し悪しを計る考え方です。即興のセッションの後、参加者たちが明るい表情で頬を上気させているのを見ると、単純に「いまのは良いセッションだったんだな」と見る側も感じます。
しかし、無軌道な快の追求は場合によっては危険を伴います。とりわけ障がいを持った方が多く参加していたそのワークショップの場合、周囲との調和という観点から、快の追求の抑制が必要になりました。自ずと他の参加者への配慮が求められ、全体的に力強い奔放さよりむしろ、ゆっくりと静かな動きが中心となりました。
この抑制する感覚は、単に外的な規律によって課せられたものではなく、それぞれの自発的なコミュニケーションの中から生じるもので、私自身、最初は戸惑うことも多かったです。しかし次第に顔見知りが増えてくると、抑制的な状態であっても、相手の特徴や状態に合わせて豊かなやり取りができるようになってきました。それは私からの一方向だけでなく、相手の側から積極的に仕掛けてくることもありました。そうやって渡したり受け取ったりしている関係は、まるで遊んでいるようでもありました。とても楽しいものでした。
「私」自身をひとりの「他」として含む、「他」の総体としての場
ワークショップという場は、いわばその場の皆が参加者であり、常に自分の立場からの関わりを考えることが求められます。つまり、傍観者ではいられないということです。参加者は常に「私」の視点を持って集団に関わります。しかし、「私」を強く打ち出して他人に影響力を行使するばかりではなく、「他」から受け取り、「他」に返し、自分自身が相手にとっての「他」であるということを理屈抜きで感じながら場を生み出していくという態度が求められます。
即興を通じて生み出されるのは、個々の動きであるというよりむしろ、「私」自身をひとりの「他」として含むような、「他」の総体としての場といえると思います。したがって、即興の良し悪しの判断は、個々の参加者に対してではなく、そのセッションで生み出された場に対する判断であるでしょう。
どれだけセッションを繰り返しても、同じメンバー・同じ場所・同じような時間帯におこなったとしても、同じ場の生成を再現することは困難だと思います。即興は一回性をもつといいますが、それは再現の不可能性を指していると思います。再現できない場を評価することは難しいですが、しいていえば、そこに参加する誰もが不当に抑圧されておらず、自身の自発性によって自由に運動し、それが互いにつながり合って高めあっている感覚をもたらしているときに、その場は良かったといえるのではないでしょうか。