執筆: 野村誠(@MakotoNomura4)
ぼくは作曲家ですが、即興演奏家でもあります。即興は、ぼくの音楽にとって欠かすことのできない大切な一部です。「インプロ・りぶる」が、即興演奏を「わかりやすく、やさしいことばで発信」するということに大変共感して、今回テキストを書かせていただくことになりました。
書きたい内容が色々あり迷いましたが、即興の核心をつく話をするには、インドネシアの伝説の舞踊家について書くしかないと思い、ベン・スハルトの即興メソッドについて書くことにしました。ジャワ舞踊家の即興の方法を紹介しつつ、ぼくなりに考察してみようと思います。
インドネシア・ジャワの宮廷舞踊家 ベン・スハルト
ベン・スハルト(Ben Suharto / 1944 -1997)はジャワの宮廷舞踊家でありながら、即興の達人でもあった人です。若くして惜しまれながら他界した方なので、残念ながらぼくは彼のダンスに直接触れる機会はありませんでした。
しかし、ベンさんの影響力は非常に大きく、ジョグジャカルタという古都の伝統舞踊家たちは、即興に長けている人が多いのです。彼/彼女らに即興のことを尋ねると、必ずと言っていいほど、ベンさんの名前が出てきます。また、ジャワ舞踊家の佐久間新(さくま しん / 1968- )さんは、やはり即興を得意にされる方ですが、ジャワ舞踊を学び始めたきっかけが、ベンさんだったそうです。
ミロト・マルティヌスのエピソード──ベン・スハルト没後1000日目を前にして
ベンさんの即興への考え方は、舞踊だけでなくあらゆるジャンルに通じるものです。まずは、ベンさんの生徒であったミロト・マルティヌス(Miroto Martinus / 1959-2021)から教わったエピソードを紹介します。
ジャワでは死後1000日目は特別な日で、ベンさん没後1000日目に記念する大きな公演が行われました。ミロトは、ベンさんの即興を再構築し、新たなソロダンス作品を発表することにしたのです。
1ヶ月間、毎日、ベンさんの即興のビデオを見返し、動きを抽出し、名前を付け、即興から作品を作ろうとしたミロトですが、作品が仕上がりガムランとリハーサルをしたものの、自分の作品がベンさんの表面的な物真似を脱していないことに気づきます。ミロトはマネージャーに、
「もう無理だ。全然ダメだよ。明日の公演はできないよ」
と泣き言を言いますが、マネージャーは「もう新聞にも載っているし、今さらキャンセルできない」と説得します。落胆したミロトはベンさんに謝るべく、お墓を訪ねます。
「色々やってみましたが、ぼくには無理です」
お墓に向かって祈っていると、ベンさんの魂が背後に現れたのをミロトは感じます。ベンさんの魂はミロトに告げます。
「君に教えた即興の3つの原則があるじゃないか。ただ、それをやればいいんだよ」
ベンさんのメッセージを受け取ったミロトは、作ってきた作品を踊ることをやめて、完全な即興で公演に臨みます。公演では、ベンさんから教わった即興の三原則に従いました。すると、公演は大成功で、その見事な即興は、ベンさんの親友をして、ミロトの身体の中に、ベンさんの魂がいると感じた、と言わしめたそうです。
この経験を経て、ミロトはベンさんから教わったことを若い人に伝えていきたいと思いました。そこで、町の郊外に広いダンススタジオを作り、場所を若いダンサーに無償で提供し、ダンスを無償で教えました。
ベン・スハルトの教え① 即興の三原則
ベンさんの「即興の三原則」とは、非常にシンプルなものです。それは、心の持ちようでもあり、ジャワの哲学とも言えるものです。すなわち……
- Respect(全ての物事を敬う)
- Open your heart(心を開く)
- Being patient(忍耐強く待つ)
(1) の「リスペクト」は、楽器に対するリスペクトだったり、共演者に対するリスペクトだったり、観客に対するリスペクトだったり、会場に対するリスペクトだったり、自分自身に対するリスペクトだったりします。まず、敬意を持つことが、全ての原則の最初で、このことが、他者への信頼に結びつきます。
他者への信頼があることで、(2)の「オープンマインド」になることができます。観客に対して心を開き、共演者に対して心を開き、あるいは、自分自身の内面の固く閉ざしていた扉を開ける。
こうして、リスペクトがあり、心を開いていると、(3)の「待つ」ことができると言うのです。人前で即興をしていると、「何か仕掛けなければ」とか、「硬直状態から脱しなければ」などと焦ってしまいがちです。しかし、焦らずに時が来るのを待つことが大切だと、ベンさんは説きます。
今の即興がうまくいっていないのでは、と不安を感じると、なかなか待つことは難しいです。しかし、リスペクトがあれば、共演者を信頼できて、無闇に焦らずに待てるでしょう。観客が即興の中に面白さを見つけることができると観客を信頼することで、焦らずに待つことができるのです。
逆に言うと、心を閉ざすと、共演者や自分自身の演奏に、魅力が感じとれないかもしれません。そうなると、共演者を信じることもできず、自分自身も信じることができず、待つことができなくなり、何か過去にうまくいった場面を再現したくなります。
手慣れた奏法やテクニックを持ち出し、観客をエンターテインしようとしてしまうのです。しかし、それでは過去の成功体験の焼き直しに陥り、即興の醍醐味を味わうことはできないでしょう。ベンさんの即興メソッドは、そうならないための教えです。ミロトは、ドイツでピナ・バウシュ(Pina Bausch / 1940-2009)からコンテンポラリーダンスを学び、アメリカの大学院でもダンスを学んだ優れたダンサー/振付家でしたが、ベンさんの教えを彼は本当に大切にしていました。
ベン・スハルトの教え② 「Ruji」勝手に身体が動くということ
ベンさんは、生徒ごとに全く違った教え方をしていたようです。コラボレーションを積極的に行う舞踊家のスワルト(Suwarto / 1971-)が伝授してくれたのは、ベンさんの「Ruji」という方法でした。
「Ruji」というのは、傘の骨、自転車のタイヤの車輪の輻(スポーク)を指すインドネシア語です。車輪のスポークをL字状に垂直に折り曲げ、そのL字の金属棒を右手に一つ、左手に一つ持ちます。それを動かそうとしないで、それぞれの先端に意識を集中し真剣に見つめると、勝手に身体が動き出す、というメソッドです。
勝手に身体が動くなんて、おかしいと思われるかもしれません。弾力性のある長い棒の先がL字に曲がっていると、動かそうとしていなくても、微かに先端が揺れたり安定しません。その不安定な先端を見続けると、当然、目も少し動きますし、首も少し動くかもしれません。首の角度が少し変れば、体の傾きが少し変わるかもしれません。そんな感じで、姿勢が少しずつ変化していきます。
ここで大切なことは3つ。
- 無理に動かそうとしないこと
- 先端を見つめる姿勢を続けること
- 意図せずに動いてしまった場合、元の姿勢に戻そうとしないこと
自然に姿勢が変わり、そのことで大きく体のバランスが崩れてもいいのです。倒れてしまいそうになれば、勝手に足を踏み出しますし、一歩踏み出せば、その勢いでもう一歩踏み出したらいい。こんな風に、動くつもりがないのに、いつの間にか身体が勝手に動き出す。これが、「Ruji」に誘導される即興なのです。
人間の身体は静止しているようで、実は坂道で止まっているボールのような存在なのです。風が吹いたり、少しのきっかけさえ与えれば、ボールは坂道を転がり始めるでしょう。だから、止まっている身体も、実は不安定で、微かなきっかけさえあれば、自然に転がるように動きは生まれてくるのだ、と「Ruji」の方法は教えてくれます。
「Ruji」による即興舞踊の興味深いところは、まずパフォーマーが演じ手である以前に鑑賞者になるところです。即興をする時に、自分がこれから何をするのか、と自分自身に意識がいくことが多いですが、(ただ『Ruji』の先端を見つめるという)鑑賞者になることで、意識を自分自身ではなく、自分の外部に向けるのです。
自分に意識を向けないのに、自分の身体が動き出す。この感覚を一度体得してしまえば、手に『Ruji』を持たなくても即興で踊れるようになる、とスワルトは言います。
自然で平和な即興が、なぜ新鮮なのか?
ベンさんの即興への2つのアプローチは、具体的なテクニックは、何も教えてくれません。ただ、世界に向き合う態度を教えてくれます。
しかし、捻くれ者のぼくは、ちょっと待てよ、と思います。他人を敬い、心を開き、自然に委ねる態度って、なんだか単なる綺麗事のように聞こえます。「波風のなく平和でイージーな即興って、つまんなくない?」そんな疑問が湧いてきます。
しかし、ぼくの経験する限り、ジャワの達人たちの即興では、信じられない美しい瞬間が何度も訪れます。実際、YouTubeにあるベンさんの即興舞踊を見ても、常に予測を裏切るような不思議な動きや姿勢が続出します。どこにも無理がなく、指先だけが動いているかと思いきや、それが身体の全く別の箇所を微かに動かし、気がつくと全身が動いていく。まさに「Ruji」のメソッドそのものなのです。
では、自然な動きで流れに任せているだけで、どうして常に新鮮な即興ができるのでしょうか?そこでヒントになるのが、タイの民族音楽学者/作曲家のアナン・ナルコン(Anant Narkkong / 1965-)の言葉です。
「複数系の即興」音楽学者 アナン・ナルコンのインタビュー
アナン・ナルコンとは、2004年にバンコクで出会って以来の親友で、彼とは日本、タイ、インドネシア、マレーシア、カンボジア、オーストリア、イギリスと、世界の様々な場所で即興セッションをしてきました。様々な民族楽器を自由自在に演奏し、博識で何でも知っている上に、ユーモアたっぷりのお茶目な人で、ぼくが最も尊敬する音楽家の一人です。
以前、アナンにインタビューした時、彼の音楽観を尋ねるつもりで、ぼくは「Your music」という英語を使いました。当然、彼の返答は「My music is…」と始まると思ったのですが、彼は「Our music is…」と答えてきました。ぼくは単数形のつもりでYourと言っているのに、彼は複数形で受け止めるのです。
もちろん、先祖代々脈々と継承される伝統音楽の話だったら、Our musicになるのも理解できます。しかし、彼自身のコンテンポラリー作品について質問しても、Our musicという姿勢は変わらなかったのです。彼は一人で演奏している時ですら、自分自身を複数形の存在として捉えているのではないかと思いました。多くの人々が彼の中に同居している感覚があるのだと思います。
ベン・スハルトも一人で踊っていても、複数形だったのではないでしょうか? だから、彼の即興は決して凡庸にならず、常に新鮮なのではないでしょうか? ベンさんの即興メソッドの謎を解く鍵は、自分を複数形にすることにあるのでは、とぼくは思います。
即興がつまらない時、即興が行き詰まる時、しばしば、自分の癖やパターンに陥ります。しかし、自分がやりがちな癖やパターンを脱するために、「〜〜〜はやらない」と禁止事項やルールを作ることもできますが、そうした制約は、しばしば不自由さが増し、即興が本来持つ自由さや悦びが失われてしまうことも多いのです。では、どうやって自分という殻から脱出できるのでしょうか?
自分の癖やパターンは、(単数形としての)自分自身を反復する行為です。初心者であろうと熟練した経験者であろうと、自分が習得した技術に縛られていることには変わりなく、自分自身の反復に陥ります。ベンさんのメソッドは、そこから脱出するために、編み出されたのではないでしょうか?
自分自身の演奏スタイルに固執するのではなく、自分の中に他者を取り入れる。だから、「心を開く」とか、「他者へのリスペクト」とか、「辛抱強く待つ」とベンさんは教えたのです。
最後に──即興は、触れることなく「あなた」と「私」が交わり合う
他者の影響によって変化した自分は、過去の自分の再生産になることは決してありません。そして、即興によって、複数形としての自分を更新していくこと。それは昨日までの自分を否定することではなく、でも、昨日までの自分になかった新しい自分に出会える体験です。自分の中にあなたも入り込み、あなたの中に私も入り込む体験です。それこそが即興の、セッションの醍醐味だ、とベンさんが教えてくれるように思います。
コロナで非接触の時代に、物理的に接触しないのに、あなたと私が交わり合うことができるのが即興です。そんなメッセージを、ベンさんは私たちに送ってくれているのではないでしょうか?そう考えると、即興って本当に素敵なことだな、と思います。だから、ぼくは即興が大好物なのです。一緒に即興してみませんか?
ぼくにとって、即興はおしゃべり。その時間を生き、その場所を味わい、気配をキャッチボールする。風がふるえていくのを、全身耳になって聴く。うっとりしたり、くつろいだり。心臓バクバク、テンション上がり下がり。普段だったら絶対しないことをやらかしたり。退屈と興奮の境目を超えていく冒険。