執筆者: 松岡大輔
即興はしばしば「なにもないところからの創造」であるとイメージされます。「なにもないところからの創造」とは、一体どんなことを指しているのでしょうか。今回はそれを少し考えてみたいと思います。
【連載】即興ワークショップ体験談④ – 体の自由について「白紙」に戻るための芸術
最近は芸術鑑賞も「タイパ」重視と言われたりします。あふれかえるコンテンツを前に、とにかく数をこなすためには効率が重要だと考える気分もわかりますが、こういった態度は基本的に情報(あらすじ、見どころ、聴きどころ、など)を得るための行為という側面が強いと思います。
対して、ある種の芸術鑑賞とは、それまでに身につけた知識や観念を破棄して、むしろ積極的に「白紙」に戻るためのものだという考え方があります。知識を増やすための鑑賞ではなく、むしろ知識を捨て、減らすための鑑賞です。
この考え方の前提に、人間は生まれたときには「白紙」の状態であり、その後の人生経験を通じてそこに観念が書き込まれていく、という思想があります。
この思想は、是非はともかく、ひとつのロマンチックな物語として魅力的です。生まれたときには「白紙」であった人間には、歳を重ねるにつれ様々な観念が書き込まれていく。蓄積によって得られた知識や知恵は、同時に、人間原初の「白紙」の自由を奪っていく。
即興ダンスの自由は、まさにそこにあるのではないでしょうか。もともと「白紙」であった存在が、書き込まれてきた観念から自由になるということこそが。
即興ワークショップにおける2つの過程
「白紙」に戻るという状態を念頭に置いて、即興ダンスにおける「なにもないところからの創造」を考えてみましょう。
まずは、自分が経験的な固定観念や身振りの決まり事、様々な型、思い込みなどによって塗りつぶされていると知ること。
そして、ワークショップの場での体験を通じて「白紙」に戻ること。肝心なのはここです。
「白紙」に戻る過程と、そこから新たに踊りをつくり上げていく過程は、別物だと考えてもよいのです。「白紙」に戻った結果、ほとんど踊りらしい踊りができなかったとしても、それはまったく問題ありません。うまく構成されたワークショップでは、この「白紙」に戻るフェーズと踊りをつくるフェーズを淀みなく繋げていたり、踊りをつくる過程を通じて徐々に身体と意識を「白紙」に戻していったりと、様々な工夫がされています。
「白紙」と「関係性」の両立
「なにもないところからの創造」について、もうひとつの考え方があります。それは「関係性からの創造」です。
即興を語るひとつの定石が、「即興はコミュニケーションである」というものです(ここでは、『コミュニケーション』=『関係性』と解釈します)。ポイントは、先述の「白紙」に戻ることによる自由と、この「関係性からの創造」が、一見矛盾するように思えることです。せっかく「あるがまま」の自分に戻ったのに、それを「関係性」に絡め取られたら意味がないのではないか──と。
だからこそ、「白紙」であることと「関係性」、このふたつの観点が調和した即興は、非常に素晴らしい鑑賞体験を与えてくれる“優れた”パフォーマンスと言えるのかもしれません。
【連載】即興ワークショップ体験談③ – 即興の「良し悪し」はどうやって判断する?「白紙」に戻る感覚と、他人との「関係性」との間で、一体どのように折り合いをつけるのか。シンプルに一緒に盛り上がるというあり方ももちろん可能ですが、情緒だけが支配的な場になってしまうと、他人への思いやりを持つ参加者ほど、自身の「ありのまま」を抑圧して「関係性」に奉仕してしまうのではないか、という懸念もあります。
だから、逆説的ではありますが、即興ダンスの参加者は、「関係性」の中にありつつもどこか他から切断された、個人としての充実感を大事にするべきなのだとも考えられます。誰も彼もが満ち足りた「あるがまま」の自分自身であるということを前提として、その場の「関係性」をうまく構成することが、ワークショップを創造的にする秘訣ではないか。これは、私なりの知見から得たひとつの考えです。