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「輪」のかたちを試行する──〈作品 #3 俳優とホルニストとヴァイオリニストによるインプロヴィゼーション〉によせて

執筆:灰街令 @ReiHaimachi

即興演奏を含む即興的な芸術行為においては、創造の助けとなる何らかのアイデアやモチーフを発見することや、あるいは創造が行われる場のロケーションやシチュエーションを決定することなど、行為自体の外側にあるように思える事柄こそが、作品の成り行きに決定的な形を与えることも多い。俳優の岡本唯、ホルニストの近藤圭、ヴァイオリニストの加藤綾子によるインプロヴィゼーション〈作品 #3〉でも、「輪」というモチーフの選択と変奏が、作品全体の形を(まさに輪を成すように)繋ぎとめていたように思った。

「輪」のモチーフの徹底は、舞台に円形を作るように並べられた丸椅子、マイクスタンドに吊られたフラフープのようなホルンやその替え管、セリフのカノン的な模倣(輪唱)、中盤で唐突に始まるワルツ(円舞曲)めいたシークエンス、演者たちの回転・周回といった身体運動など、作品の全体に及んでいた。

このように語れば、単一的な「輪」の形象が姿を変えて、各セクション(各セクションは概ねソロとアンサンブルを交互に行うように配置されていた)にあらわれ、全体を統一していたかのように聞こえるかもしれない。実際、「輪」という語は、しばしば「全体の輪を乱すな」といった風に、統率のための発話のなかで多く用いられるものでもある。組体操には四角錐と同時に、円の形態が多くあらわれる。一方、本作で行為された「輪」は、そのひとつひとつが別々の歪さを伴ったものであり、全体が繋ぎとめられつつも、一種類の「輪」へと還元されていくことはないものだったと言える。

たとえば、冒頭の、近藤の奏する解体されたナチュラルホルンに他のふたりが替え管の「輪」を接ぎ木していく行為は、ひとつの楽器としての完成を目指して「輪」が形成されるというよりも、複数の独立した「輪」が歪な形に接がれることによって、結果としての音響が変容していくというものだった。あるいは、円を成していた丸椅子が、演者の行為のなかで徐々にその配置を変え、公演の終盤には星座を構成する星々のように散らばっていったことも興味深い出来事として思い返される。

〈作品 #3〉には、2拍子の素朴な音楽を高らかに反復的に奏でながら三人が行進するシークエンスが、ロンド(輪舞曲)形式のように、各セクションの間に挟まっていた。最後の退場へと繋がるシークエンスにおいてもこの行進が行われたが、そこでは、配置がばらばらになった丸椅子ひとつひとつの間を縫いながら、そのひとつひとつの周りをまわって複数の「輪」を作っていくような軌跡が描かれていた。その最後のシークエンスにおいては、行進に伴うヴァイオリンの力強いフォルティッシモの反復はピアニッシモのピチカートへと変容し、声とホルンもそれまでのものとは異なって、ささやくようだった。

〈作品#3〉は「輪」をアイデアとした、「輪」に向かっていく創造である一方で、統一的な「輪」からばらばらとなった弱いものを、もう一度それぞれ個別に「輪」として形にし、繋げていくような、一連の試行=思考だったのではないだろうか。実際、各セクションやシークエンスは確固とした作品としての芸術行為というよりも日常的行為と地続きのようなものでできており、質感もバラバラで、それを「輪」としての作品へと繋がり得る一連の「輪」(歪ながらもホルンを形作った、接ぎ木された替え管たちのような「輪」)へと、ギリギリのところで形にしたのは、各演者の「輪」を象る個別的な技術もさることながら、アンサンブルのなかで立ち上がる「輪」というイマージュの多数性への想像力だったと思う。

(写真:門田和峻)

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